秀吉のベッドとは
意外にも、あの豊臣秀吉は、ベッドに寝ていたといいます。
天正11年(1583年)、豊臣秀吉は、大坂城の築城を開始しました。30余国から数万の人夫を動員し、三年の歳月を費やして大坂城は完成しました。
大友宗麟の「謁見記」より
大坂城完成から3年後、豊後の戦国大名、大友宗麟は、天正14年(1586年)に、この大坂城内を見学しています。
彼の「謁見記」によりますと、4月5日に城内で歓待を受け、本丸の鉄(くろがね)の大門から、黄金の茶室、本丸内部、西の丸の大奥、山里丸の茶室、九重の大天守閣へと案内されました。その間、秀吉の寝室とその隣の北の方の寝室も見学しています。
秀吉の寝室は九間(18畳)、ここに寝台がありました。長さ七尺(212.1cm)程、幅四尺(121.2cm)程、高さ一尺四、五寸(45.45cm)程といいますから、今のベッドのサイズでいうと、セミダブルサイズのロングといったところでしょうか。
身長が150cm前後であったといわれる小柄な秀吉からすると、大きなベッドでした。ベッドにクッション性があったかどうかはわかりませんが、シーツの部分に猩々緋(しょうじょうひ = 緬羊の毛で織った赤色の毛織、赤のラシャ)がのべてありました。
隣室にも同様のベッドがあり、これには「唐織物の夜の物」と「小袖」とがいくつもたたみあげてあったといいます。唐織りの模倣は天正頃からおこなわれたといいますが、ここにあったのは中国から渡来した舶来の布地で作った夜着の類を指しているのではないでしょうか。
大友宗麟を惹きつけたのは、派手なベッドと猩々緋の敷物、豪華な文箱や違い棚、それに華麗なる唐織物でした。
ポルトガル人を介した南蛮文化が桃山時代にもたらした影響は大変大きかった様です。ポルトガル人がヨーロッパ式のベッドを秀吉以外の大名に進物として贈った例もあるそうです。
ルイスフロイスの「日本史」より
宣教師、ルイスフロイスの「日本史」によりますと、大友宗麟が大阪城を訪問した翌月に、フロイス達も秀吉によって大阪城を案内されています。
「(中略)・・・関白は錠がかかった非常に長い多数の大函を開いて我々に見せたが、それを見た我らは互いに顔を見合せて文句なしに驚嘆した・・・日本には折畳み寝台も普通の寝台もなく、それらに寝る習慣もないにも関わらず、2,3台の組立寝台が見られた。それらは金糸で縫いつけられており、ヨーロッパでは高価な寝台にのみ使用される他のあらゆる立派な装飾が施されていた・・・。」
ただ、残念ながら、秀吉が使っていたベッドは、大坂の陣による大坂城落城とともに焼失してしまい、詳しい資料が残っていないのがとても残念です。
ベッドの日本史
もともと、「ベッド」というものは、日本では、奈良時代以前に中国より伝わったといわれていますので、実際には秀吉の時代よりはるか昔から存在していました。正倉院には、聖武天皇が寝ていたといわれるベッドが保存されていて、かなり早い段階から、皇族や貴族、高級官僚などの間でベッドは使用されていました。
ところが、平安時代に「畳」の出現とともに、居住空間の様式が変化して、ベッドは廃れたといわれています。といっても、そもそも一般民衆レベルでは当時はベッドは広まりませんでしたので、あくまで、皇族や貴族、大名、高級官僚など、一部の人達の世界でのお話ですけれど・・・。
その後、江戸時代には、出島の外国人の商館等でベッドが用いられていたため、交流のあった一部の日本人には、西洋文化としてベッドの認識はあった様です。
明治以降、欧米式の生活様式が広まるとともに、再度日本にベッドが伝わりますが、畳の上で寝る形式が普通だった日本ではあまり広がらず、病院や軍隊など、特殊な生活環境を要求される際に使用するもの(あるいは金持ちのステータス)としての意味合いが強かった様です。戦時中に多くの病院のベッドが不足した時代があったことはよく知られています。
一般大衆の国民の自宅にベッドが広く浸透してきたのは、やはり戦後からで、戦後、「ベッド」という言葉も一般的になってきた様です。
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